昭和40年9月8日 夜の御理解    (途中 録音不良の為 聞き取りにくい)


 教祖様の神様の御教えの中に、「畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが神の中を分けて通りよるようなものじゃ」と。と御教えておられます。どこでどういう汚いことをしておっても、ね、例えば何でもないただ、道を歩いておる時であっても、神様の中をこう分けて通りよるようなもの、神様ごめんください、ごめんくださいと言うて通っておるようなもの。信心とはそういう私は日々実感を、感じさせて頂きながら、神様ありがとうございます、神様ありがとうございますというて、明け暮れできるようなおかげを頂く為に、お互い信心のけいこをしておるというてもよいと私思います。それで、やっぱりあの、神様のおかげちいや、あー、恐れ入ってしまうなあというような所から、まず、入っていかなければならない。まず、おかげを受けなければならない。神様のおかげ、いつも、石井清さんが言われるように、例えばこう、自動車で参っておりましても、前から来る車、後ろから来る車、前を通っている車、その車の例えば番号を見てでも、おーその上の例えは称号なら称号を見てでもです、その中から神様がいつも私に話し掛けておって下さるというような、事をいつも話されているでしょう。

 昨日、一昨日でしたか、伊万里から参って来た方が、もう、これは伊万里の方達はですね、その御理解をもう一生懸命皆さん頂くものですから、かえって椛目の人たちよりもくわしいんですよ。椛目流儀に信心を頂いていくといようなう事が。ですから、伊万里からここまでやってくる間でも、神様からずっとお話合いをして来よるような状態でございますから、もうその何時ついたか覚えんごとしておかげ頂きますと言うておられますよね。有り難い。もうその気になったら神様が何時も、(?)囁きかけてくださいますように、ある場合には大きな声でほらほらとこう、こう呼びかけて下さっておるようなものを、実感させて頂きながらの生活。そういう生活が私は幸せな生活というのじゃなかろうかと思う。そういう実感の持てれる、生活が出きれることの為に、日々お互いが修行をさせてもらい、信心のけいこをさせて頂いておるというて、いよるのです。

 いかに神様が話し掛けておって下さっておっても、心が神様に向けておらんもんですから、ね、もう大きな声で「ほら」と言うてその、言うておるのでもいわゆる聞き取りきらんでおるといったような事が私はありはせんだろうかとこう思うんですね。あの、親子五人ずれで松岡さんが福岡から参っております。おかげであの、自動車の運転免許がおかげを頂いたからというお礼参拝なんです。ところがその車はあるもんですから、何ヶ月前から( ?)車が無くなっておる。ここに参って来るのも実はその事で参って来ておる。そして彼のことをお願いしてやったのですけれども、「もう先生おかげを受けておると言うことが本当に分かる」という訳ですね。「もう今まではもうどうぞ神様見逃して下さい、車は使わなければ商売が出来ないのですから、どうぞ、お願いします」というてその、お母さんなんかそれをお願いしよって涙が出てくるちいうぐらいに一生懸命お願いしよった。ね。ところがです、今日始めて家に出て来て、椛目にさあお礼参りさせて頂こうと思うて出てきよった途端にですよ、自動車が一台一台、あの、なんというですか、あの、なんとか、交通整理でですか、あの、調べがあってたというわけなんです。もう、いわゆる神様の(  ?   )よう分かります。(   ?  )奥さんの里ですから、あちらへやらせて、お参りしてからあっちにやらせて頂いた。そしてその運転を謝って溝に落ち込んだ。ね、そこに丁度通りよった人達が車を挙げてくれたりしよってそしてその、向こうにやらせて頂いて、すぐ用事を済まして帰ってきよったら、もうそこであの交通の、そげな事で立ってから、丁度そこん所でですね、そのあれをしよったっち。にたってからです、( ?)あれが落ち込んだときにあれがあったら、あーその、まああげてやるというけれども、あんたが(  ?  )と言うたら、大変だったというわけなんですね。

 まあ、そういう風にして、神様がこう、成程神の中を分けて通りよるような実感を、んー感じずにはおられんようにです、おかげを下さっておるんですけれども、まあ果たして、そういうおかげを頂いた時だけが、はあおかげを頂いたという実感が、いつもかつもそういうご守護の中にあると言う事をです、私は身近に感じれると言うことが有り難いと思う。ね、そこで様々な信心のけいこをさせてもらわなければいけんのです。いわゆる、真心を持って忠実に、ね、人より実意丁寧の限りを尽くさせて頂いて、頂くところに、はっきりした神様の働きというものを頂く。もう、松岡さん、それこそ家族挙げて御造営のことに一生懸命なんです。それはもう私が考えても、(  ?  )とてもそげな事が出来るはずもないような、大きな金額を( ? )。金額をお供えさせて頂きたいという、神様にお願いをしては、それが着々としてこうおかげを頂いておる。それは、( ? )のようにしてから、これはお母さんが(          ?  録音不良           )お供えしている訳なんですね。それであの、(      ?録音不良         )一万円も入っておったっち。私は七千円ぐらいだろうと、(  ?)ちいうて開けてみたんですよね。そしたら、開けてみたらキッチリ(   ?   )自分が入れたんじゃないんだなあ、神様が入れさせてくださったんだなあという事が分かるんです。ですから、これからその、五円玉、十円玉を入れさせて頂くでもです、ね、自分が入れよっちゃるとじゃないなあ、神様が入れよなさるっちゃなあという実感の中にいよいよ、有難さが募ってくるようなおかげになってこなければいけんと思う。

 丁度、一万円と五円入っておったという。だから、この五円だけは(  ?  )。もう、お供えさせて頂いて、(  ?  )いっているんですよねえ。いや、本当に間違いないことですよねえとこういう。ね。(  ?  )ね。例えば、( ? )を朝晩掃除させて頂くように、「神も助かり氏子も立ち行く道」とか、「あいよかけよの道」とかいうのは、そういうようなことじゃなかろうか。ね。(  ?  )私が入れよるとじゃないなあ、神様から入れさせて頂いている(  ?  )と言うことが分かってくる。ね。神様がつこうて下さるんだなあというものが分かろうが。それなら、一万円より十万円、十万円より百万円のようなおかげを頂く事にいわば思いを置いたらもっと、ありがたいことになってくる。いわゆる、折角神様にあいよかけよで働いて下さるんなら、こちらの思いも大きくもったほうが有り難いということになる。為にも、もちろんそれ程の修行をさせてもらわねばならんということでございましょうけれども、ね。

 そういう、私は良しにつけあしにつけどのような事の中にでも、神様のお守りの中にあるんだなと、何ヶ月間と言う間、神様見逃せて下さい、見逃せて下さいと必死にお願いして、祈らせて下さっている印をです、私はそういう風にして見せて下さる。ね。今日も吉井、あちらのほうへ行く時、そこに落ち込むなら例えば三十分なら三十分間、遅れてからおちこんどったら( ? )いわば警察の人達に、( ? )とこういう。無事通過する事が出来たとこういう訳なんです。丁度そこに落ちこんどったっち。ね。今朝は、例えば今日はその、こうしてお礼に出させて頂こうというて、一緒に出てきた。いつもならばその、お仕事を(?)お礼にださせて頂こうというてお礼に出ていきよったら、今までかつてない事が(?)本当にその、一台一台車が、止められておって調べられておる、さあ今免許書をもっておるから大丈夫といったようなです、そういう、確かにおかげの中にお互いがあるんですよ。それがよし、例えばんならそういう、その、タイミングでおかげを頂かないにしても、その反対でありましても、実をいうたら同じ事なんです。例えば神愛という意味合いを持って頂いたら、だから信心とはそこんところを、分からせてもろうて、ね、降っても照っても有り難いという気持を開かせて頂くことのために、信心のけいこ。畑で肥をかけておろうが道を歩いておろうが、神の中を分けて通りよるような実感の中にです、私日々おかげを頂かせて頂くような、信心のけいこをさせていただいておると言うても、( ?)そういうようなところに皆さん、一つ焦点を置いて、信心の共励をなさるとよいですね。
                       どうぞ、おかげをいただいて・・・